1999年10月母親が心臓弁の手術の為に板橋の日本大学病院へ入院した。
元々御茶ノ水にある駿河台日大病院の循環器内科に通院していたのだ。それもあって私は日大病院の精神科に通院したのだ。入院した母親は毎日電話をしてきた。「カレンダーが欲しい、花瓶を置く台はないけど花を飾りたい」などなど・・・。10月にカレンダーなんて売っていない。私は手作りのカレンダーと紐でぶら下げられる花瓶を見つけてお見舞いに行った。
その時私の状態はだいぶ良くなっていて、それを知らせたくて「お母さん、私ねもう普通の人と変わらないって!」と言ったら「しっ!!」と止められた。同室の人に聞かれたくなかったのだろう。私は恥ずかしい存在なんだと改めて実感した瞬間だった。ショックだった。母親は入院してから食欲がなくなり「体重がもう〇〇㎏しかないのよ」と自分の事は言うが私の声には答えてくれなかった。
お見舞いは1度しか行かなかった。手術日にはもちろん行った。手術室に入る前の母親の手を握り「大丈夫、大丈夫、目が覚めたら終わってるからね。元気になっているからね。大丈夫、大丈夫」と繰り返し言った。手術室に運ばれて行く母親、自動ドアが閉まるまで手を振った。母親も振っていた。途中何度もドアが開いたがその度に顔を見て手を振った。何度もドアが開くので看護師さんが苦笑いをしていた。
前日は眠れなかった。当日も待合室で目は閉じていたが眠れなかった。叔母も来ていてくれて途中から病院の庭で話しながら終わるのを待っていた。そこに義姉が駆け寄って来た。「お母さんが大変!」叔母と私は急いで手術室へ向かった。執刀医がいて母親の状況を説明していた。「心臓の筋肉が薄くなっていて縫っても縫ってもそこから出血が止まらない状態です。」「人口心臓は?心臓移植は?」医師は首を横に振る。「人工弁の手術は成功しました」と言いやがった。弁が治ったって元の心臓が約に立たなかったら意味がない。誰が「分かりました」と言ったのかは忘れてしまったが「それでは閉じて綺麗にいたします」と医師は言った。
しばらくしてから母親と会った。頬を触ると温かかった。思わず「温かい」と言って声が出てしまった。医師は「まだ機械が動いてますから」私は母親の頬を両手で包みながら「お母さん、ごめんね」と言葉を掛けた。そして皆の顔を見て確認してから医師に合図した。医師は機械を止めて母親は72年の生涯を終えた。1999年10月12日。
母親は霊安室に移された。私達家族はまさに「お通夜状態」だった。誰も何も話さなかった。のちに今回の手術にかかわった人達がお線香をあげに来てくれた。中には母親を手術室に運ぶときにいた看護師さんの姿もあった。私と目が合うと会釈をしてくれた。
葬儀屋さんが来た。兄の友人が経営しているところだった。兄は私に「お前は棺の葬儀屋の車に乗れ」と言った。あんたは死んでも人に面倒をみさせるんだねと思った。
車の中でタバコを吸いながらボーっとしていた。母親は私の病気を理解してくれないまま死んでしまった。
それが悔しくて悔しくてしかたなかった。死んでしまったらもうどうしようもないじゃないか!
車が兄の自宅に着いた。いつも一緒に寝ていた猫の「もも」を兄が連れて来てさよならさせた。ももはいつものように見えないのに母親の足元に行き座った。兄が引き戻そうとすると爪を立てて離れようとしなかった。それが猫でも別れが分かるのかと悲しくなった。兄の家には階段が狭く棺が入らないので葬儀屋に遺体を預ける事になった。
葬儀屋との打ち合わせが始まった。
まずウチは「浄土真宗」である事、母親は花の祭壇にしたいと言っていた事を知らせた。兄は「そんな事お前知ってるの?」と驚いていた。私はあんたが何も知らなさすぎるんだよと思った。
ウチに着いた。実姉を泊めた。私は母親の棺に入れる物を夜遅くまで準備していた。晩年日舞を習っていたのでその曲をテープにダビングしたり遺影を選んだり・・・。翌朝実姉に「あんた夜中までガタガタやってたでしょ!眠れなかったわよ!」と言われた。
つづく。
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