両親が離婚し、兄が結婚して家を出て行き、姉は高卒で社会人になり、私は中学生になった。
小学校は学区外から通って いたので中学校は知り合いが一人も居ない向島中学校に入学する事になった。
登校1日目、私は目があまり良くなかった。そして兄の影響かもしれないが学生カバンを黒いビニールテープでペッタンコにつぶし、制服のセーラー服は上着の丈を母に上げてもらっていた。1年生は4階に教室がある。階段で3年生の階2階を通る時、先輩が手洗い場で髪を櫛でとかしている姿を見ていた。その時無意識に目を細めていたのだろう。それが先輩は「眼をとばしてる」と思われたらしい。制服も違反。カバンも違反。そりゃ、目を付けられるはずだ。その日「放課後下駄箱のとこに来て」と一人呼び出された。
放課後、直に行った。3人の先輩に囲まれた。手こそ出されなかったが、怖い思いをした。カバンのビニールテープは外した・・・が、制服はそのままにしていた。目も極力細めず、先輩は見ないようにした。
クラスで、誰一人知り合いが居ない。決められた席が一番後ろだったので私はクラス全体を見て人気者を探した。その人と友人になれば一気に友人が出来ると思ったからだ。そしてある子に「私、凜、三寺小学校から来たの、お友達になって!」と勇気を出して言った。その子は驚いていたが「良いよ」と言ってくれた。それから、どんどん友人が出来、私は学級委員長に選ばれた。何をするわけではないが、朝礼時に全校生徒が整列している最前列にいるのは気分が良かった。・・・が担任の社会の先生には授業中にしょっちゅう「凜は学級委員長のくせに勉強ができない」と訳の分からないハラスメントを受けていた。
当時、私は世良公則&ツイストの大ファンだった。下敷き替わりにクリアファイルの中に好きなアイドルの雑誌の切り抜きを皆入れるのが流行っていて、もちろん私は世良さんだ!それを知っている友人(男女問わず)は切り抜きを沢山くれた。
夏服になって半袖になった時ある男子が私の腕を見て「凜って毛深いのなぁー、サルだ!サル子!」と言い出してから男女問わず私のあだ名が「さる子」になった。全く嫌ではなかった。敵意や嫌味がある感じではなかった。からかわれているかもしれないが、それもいいじゃないかと思った。それに、なにより自分でそんなに毛深いとは思っていなかったからだ。
当時世良公則&ツイストの「燃えろいい女」がヒットしていた。私を「さる子」と呼ぶ友人は「燃えろぉ~いい女ぁ~燃えろぉ~サル子ぉ~!」とからかいながら歌っていた。からかっていたかもしれないが、歌詞は「燃えろいい女」だ。褒められていると思って聞き流していた。
ある授業で「自分の名前の由来」で作文を書く事になった。小学生の頃母親に聞いたことがある。それをそのまま作文にした。それを班で供用しあった。
私は「私の名前は両親がつけたものではない、占い師に頼んで当て字でつけた名前で何の思い入れも無い」書いた。同じ班の男子が「凜ってかわいそうな」と言った。
クラブ活動はバスケットボール部に決めた。小学生のころ「ポートボール」が得意だったからだ。バスケットシューズが必要になった。母親に「靴が必要」だと話すと「いくらするの?」「\5000くらいって先生が言ってた」と言うと「そんなにするの?!」と言われた。母親からお金を貰い浅草のスポーツ店へ部員全員で買いに行った。初めて下した時、顧問の先生が1年生を1列に並ばせた。「何をしているのだろう?」と思っていたら私の番になった。「あだ名は?」と聞かれた。「凜です」と言ったら顧問の先生は私の靴の側面に「じん」と油性マジックで書いた!私は母親がやっとの思いで買ってくれた靴に無断で汚した顧問が許せなかった。しかも間違っている。頭に来た私は「違います!」と怒鳴った。顧問は笑ってごまかしていた。
私はブラジャーを着けた事がなかった。クラブ活動の時走ると揺れる胸が嫌で、どうしようか迷った挙句、私は一番ピタピタのタンクトップ(蛍光グリーン色)を体操着に下に着てクラブ活動を行っていた。顧問の先生が気が付き「凜、何を着てるんだ?」と聞かれた。その後3年生の先輩が「スポーツブラ」という物がありそれを着けると良いと教えてくれた。そのまま母親に話しスポーツブラなるものを身に着けて快適に過ごせるようになった。それにしても、生理の時といい、ブラジャーといい、なぜ、母親は女なのにそこに気が付かないのかと不思議でしかたない・・・。
つづく。
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