東京都練馬区、兄(8歳上)、姉(6歳上)の次に私が生まれた。私は切迫早産とやらで緊急入院して帝王切開で生まれた。母38歳。父親の年齢は知らない。母より2・3歳年下だったと大きくなってから聞いたことがある。出生届は父親が出したらしい。そりゃそうだ、母は術後だ。父親はどんな気持ちで出生届を出したのだろうか?
物心ついたのは保育園に通っていた頃から。保育園時代は練馬区の豊島園近くに住んでいたような気がする。幼稚園児になってからは東京スカイツリーで有名な押上(おしあげ)に住んでいた。父親は配管工の会社を経営していたらしい。「らしい」というのも、ハッキリ聞かされていたわけではないからだ。一階が会社、倉庫、事務所。二階が住まいだった。事務員さんがよく折り紙でカエルを作って遊んでくれたのがとても嬉しかった。
幼稚園の頃私はひらがなが書けなかった。かろうじて自分の名前だけは書けた。同級生はは皆書けたけど小学生になれば大丈夫だろうとあまり気にしていなかった。私は工作や絵画が得意だった。卒園の記念に卒園アルバムの表紙の絵を自分で描く事になった。私は当時、上野動物園に来たパンダのリンリン、ランランを見に行きたかった。おそらく「連れて行って欲しい」と言ったはずだ。それでも見に連れて行ってくれなかった腹いせに表紙に絵を「リンリン、ランラン」にした。テレビの映像で見た通りに描いた。それが自分で言うのもおかしいが上手く描けていて先生に「あら!見に行ったの?上手に描けているわね~!」と褒められた。「見に行った」と言ったらウソになるし「見に行ってない」と言えばなぜ上手く描けたのか、なぜパンダにしたのか説明が面倒だと思い私は無言でいた。そのアルバムを母親に見せた時、母親は黙っていた。「良く描けた」とか「なぜパンダにしたのか」とか何も言わなかった。おそらくこの頃から母親の事が嫌いだったんだと思う。
小学校が引っ越す為に同級生とは変わる事を幼稚園の先生から聞かされた。ショックだった。なぜ母親は教えてくれないんだろう。
卒園する前に引っ越しをしたのでしばらくは電車通園をしていた。もちろん母親が連れて行ってくれた。
つづく。
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