受験をし直すまで勉強だけしかしないのは気が引けてアルバイトを始めた。駅前の手作りパン屋さんだ。初日の午前中はレジ打ちをし終わったパンを袋に入れる作業をしていた。午後、オーナーからいきなり「レジ打ちしなさい」と言われた。「えっ!パンの種類も値段も知らないよ、皆、何も教えてもらわなくってもレジ打ちって出来るもんなの?えー、知らないよ」私は適当に値段を打った。袋に入れる人も何も言わない。実際の値段より高かったお客様はレシートを持って文句を言ってきた。言って来なかったお客様は得をしたのだろう。ここでも、誰かに聞きたい事を聞く事が出来なくなってしまった事の不便さが出た。翌日は近所の工場から出来立てのケーキをお店に運んだり、ケーキコーナーで販売をしていた。3日目、理由は忘れてしまったがお店を辞める事にした。それをオーナーに伝えてアルバイト料を貰いに行ったら「普通3日間位だったら貰いに来ないけどね!」と言われた。
共栄学園を退学した翌年、東京都立向島商業高等学校の定時制を受験した。特別な勉強はしていない、中学校の教科書で一人で勉強していただけだ。無事に合格した。
定時制は4年間通学する。1日4時間、月曜日~土曜日、夕食時には給食が出る。1年生は30名位いただろうか・・・。2年生、3年生、4年生といくたびに生徒数が減っていた。私は残ると決めていた。クラブ活動はこの学校で知り合ったユキに誘われてバトミントン部にした。
仕事は学校の近くのコンビニエンスストア「セブンイレブン」で働きたいと思っていた。・・・が面接の問い合わせが自分ではどうしても出来ない。母親に「お願いだから聞いてみて」っと言っても「・・・」だった。「も~お願いだから!」と無理を言って面接日を決めてもらい、面接をし採用された。10時~16時勤務だ。パートのおばさんとも仲良く働いていた。学費は自分で払っていた。そして家にも月\30.000-いれていた。
この時期、私は芸能プロダクションの研究生としてレッスンを受けていた。「セイント4」というグループがデビューしたプロダクションだ。毎週土曜日有楽町線に乗って歌、演技、ダンスのレッスンに通っていた。歌は服部克久先生にレッスンを付けてもらったのは嬉しかったし思い出だ。私はアイドル歌手になりたかった。聖子ちゃん、明菜ちゃん、堀ちえみ、早見優、松本伊代、石川秀美、ets 「ザ・ベストテン」「夜のヒットスタジオ」に毎週出て、武道館でコンサートを開いて、レコード大賞を取って、紅白歌合戦に出るのが私の夢だった。しかし、私は歌より演技の方が向いていると言われた。ショックだったけど、それもいいかもしれないと思った。貰える仕事は番組のエキストラ、パレードのダンサー。数えるくらいだった。何かオーディションを受けさせてもらえないかと聞こうとした頃、セイント4がデビューした。誰とは言わないが、一人は仕事のプラスにならなければ挨拶もろくにしない性格ブスだった。セイント4に何億もつぎ込んだのだから次のデビューは遠い、内部も割れていた。私はある人に引き抜かれて独立した事務所に移動した。タレントは10名くらいだった。
17歳、姉が結婚した。出て行ってくれて本当に嬉しかった。
つづく。
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